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オバマのアイデンティティということでは、テンプル大学ジャパンの助教授であるジョン・マーサ・ミリキタニ氏という方が、面白い証言をしておられるそうです。経済評論家の吉崎達彦氏が「溜池通信」というサイトの2009年8月16日の「日記」で紹介されたものの孫引きなのですが、ハワイでオバマの2年後輩であったミリキタニ氏によれば、高校時代のオバマは「裕福な白人やアジア系の生徒たちと気ままに付き合い、(中略)人種/アイデンティティには無関心であった」というのです。

 ミリキタニ氏によれば、大統領選において黒人のアイデンティティを前面に出さずに戦えたのは、選挙戦略ではなく、そもそも若き日のオバマがそうしたアイデンティティについて無関心だったからだというのです。吉崎氏も、そんなミリキタニ氏の指摘を受けて、現在のオバマとのイメージギャップを語っておられますが、これも私に言わせればむしろ納得させられる話なのです。というのは、黒人社会ではないコミュニティや、多人種で構成された家庭などでは、黒人の血を引く子供に対して「人種を意識させない教育」を施すことがあるからです。

 黒人のアクセントを教えない、ネガティブな文脈で人種を話題にしない、人種差別的な感覚を持つ人を徹底的に遠ざける、といった行動を通して、子供をあらゆる差別やアイデンティティの危機から守り抜く教育とでも言いましょうか、恐らくオバマの人格形成に大きな影響を与えた、祖父母のスタンリー&マリリン・ダナム夫妻は、ハワイという土地でそのような態度で、娘とケニア人男性の間に生まれたバラク少年を育てたのだと思います。

 黒人コミュニティに見られる「頭を下げてはいけない」という教育、非黒人コミュニティにおける「黒人の子供に人種を意識させない」という教育、そのどちらも次世代に対する愛情から来ていることは間違いありません。ちなみに、少し以前までは「黒人アクセントを話さない黒人はニセモノ」という偏見から、この2つのコミュニティ出身者はなかなか「打ち解けない」ような雰囲気もあったのですが、今は他でもないオバマ大統領の登場ということもあって、そうした距離感は改善されています。

 そんなわけで「90度のお辞儀ができてしまった」ということは、オバマが受けてきた教育の特殊性の表れだと言えそうです。それが、異文化への柔軟な適応能力になっているのだと思います。ただ、平均的なアメリカ人には「国を代表する」という観点からの違和感が、そしてFOXは伝えていないようですが、黒人コミュニティ出身者からは「他の人種に頭を下げるのはどうも」というリアクションが出るかもしれません。これは仕方がないと思います。

■朝日社説 GDP4.8%成長―補正で民需の奮起促せ : asahi.com(朝日新聞社)

 民間の予測を大きく上回った。7~9月期の国内総生産(GDP)の実質成長率は年率換算で4.8%。前期に続くプラス成長だった。

 世界的な政策協調と日本の景気対策が、ようやく民需に波及するサイクルが見えてきたといえる。

 麻生さん、ご苦労様でした。ちゃんと結果は出ましたね。このままあと二年は続けたかったでしょうが。

51 マイクロピペット(コネチカット州) :2009/11/18(水) 17:15:37.75 ID:aIL6mA4R
結婚は相性が良ければ良いもんだ。知り合いの奴は地獄みてるけどw

金を運ぶだけの奴隷状態w

炊事洗濯は一切しない男友達と泊まりで遊びとか信じられない有り様

52 筆ペン(長屋) :2009/11/18(水) 17:20:39.07 ID:qrLiSOE7
»51
なんで相性悪い奴と結婚すんだ?
弟も相性悪い女と結婚して地獄行き
で再婚したんだけどコレまた相性悪いんだ
もう意味分からん占い師とか見てもらえよ
分かれるときは見てもらったくせに

53 チョーク(大阪府) :2009/11/18(水) 17:28:05.84 ID:GZRdMjVv
»52
イメージだけど、結婚したくて相手探した人と、付き合って
相性いいから結婚した人って大きな差があるように思える。

前者は結構地雷引いてる。

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Paul & Joe FW09-10

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Paul & Joe FW09-10

「合理的に思考する子どもたち」は、勉強するに先だって「どうして勉強しなくちゃいけないの?」というラディカルな問いを立てる。
「どうして義務教育を受けなくちゃいけないの?」「数学とか古典とか勉強すると、どういう『いいこと』があるの?」
平たく言えば、「勉強すると金になるの?」と訊いてくるのである(子どもにも多少の遠慮はあるので、そこまでストレートには訊かないが)。
残念ながら、このような問いには答えるわけにはゆかない。
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。
「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。
自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。
そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。
「学力」というのは「学ぶ力」のことである。
何を知っているかではない。
知識や情報や技芸のことではない。
「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。
「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでいるのか「すこしわかりかけているのだが、全部はわからない」ときに亢進する。
だから、学校教育は「そういう状態」に子どもを置くためにもろもろの「仕掛け」を凝らしてきたのである。
何千年か子どもを育ててきた人類学的経験から、「こういうふうにすると、子どもは成熟する確率が高い」ということがわかったので、学校における諸制度を整えたのである。
残念ながら、現在の学校制度は「成熟の装置」としての社会的機能をほとんど失ってしまった。
教育行政も保護者も、もちろん子どもたち自身も、学校にそのような機能を期待してはいない。
今学校は「換金性の高い知識や情報や技能を習得する場」というふうに単純に理解されている。
そして、「換金性の高い知識や情報や技能」よりは「金そのもの」の方がさらに「換金性が高い」(だって金だから)ということに気づいた子どもたちは(誰でも気がつくが)、「勉強よりも金儲け」を優先させるようになり、「別に金なんか欲しくないし・・・」という非活動的なタイプの子どもたちは底なしの無為のうちに沈むことになった。
そんなふうにして、日本の子どもたちの学力は急降下で劣化したわけであるけれど、それは「学校教育の意味を経済合理性で説明したことの帰結」である。
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@ Viktor & Rolf  fashion show

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@ Viktor & Rolf fashion show

いつのまにやら日本の中心に、霞が関という大木がどっしり生えていたようなもの
だろう。ついでに言えば、その大木の根元で言われるがまま、ずっとうたた寝を
していたのが自民党である。社会党のことを
「政権運営のことなんて何も考えちゃいない無責任政党だった」という人がいるが、
考えていないという点では自民党もまったく同じだろう。
いざ野党に落ちてみると、逆さにして振っても何も出てこないわけだ。

しかし、官が偉かったのは事実としても、じゃあ官を動かしていたものは何かというと
それがまったく見えてこない。理想、欲得、エゴ、そういった生々しい熱のような
ものが、彼らからはまったく感じられない。
昭和40年代に立ち上げた事業を維持し続ける必要性を問われ、困った顔をする官僚は、
どう見ても大悪人などではなく、無理難題を言われて困っている普通のサラリーマン
そのものだ。

結局のところ、官僚自身、何も考えてはいなかったのだろう。
ただ、組織とともに“自転”し続けてきただけなのだ。

若者は血の気が多く、心がモヤモヤしていて、何にでも発情する。危険な遊びを好み、いつ壊れてもおかしくないのは、転がっていく卵のようだ。綺麗な姉ちゃんに狂って、貯金を使い果たしたかと思えば、それも捨て、托鉢の真似事などをしだす。有り余った体力の捌け口に喧嘩ばかりして、プライドだけは高く、羨んだり、好んだり、気まぐれで、浮気ばかりしている。そして、性愛に溺れ、人情に脆い。好き勝手に人生を歩み、犬死にした英雄の伝説に憧れて、自分もギリギリの人生を送りたいと思うのだが、結局は、世の末まで恥ずべき汚点を残す。このように進路を誤るのは、若気の至りである。

一方、老人は、やる気がなく、気持ちも淡泊で細かいことを気にせず、いちいち動揺しない。心が平坦だから、意味の無い事もしない。健康に気を遣い、病院が大好きで、面倒な事に関わらないように注意している。年寄りの知恵が若造に秀でているのは、若造の見てくれが老人よりマシなのと同じである。

小沢氏はすでに省庁への陳情を民主党幹事長室経由とする新陳情システムを打ち出し、自民党と省庁、業界団体、自治体との関係の切断を図っており、そういう意味では、議連リストラは「自民党潰(つぶ)し」の第2弾とも言える。自民党色の強い議連を廃止させ業界団体と自民党のパイプを断ち切る、廃止が無理なら会長に民主党議員を送り込む、民主党が業界団体を取り込み、これを票に結びつける-。こんなシナリオが透けてみえる

ブリの呼び名は成長に応じて変わり, 呼び名は地方によって違う. 実際には,100近い地方名がある.

各地の主な<成長名>は次の通り.

関東:ワカシ・ワカナゴ → イナダ → ワラサ → ブリ

関西:ワカナ・ツバス → ハマチ → メジロ(イナダ) → ブリ

北陸:ツバエリ → コズクラ → フクラギ → アオブリ → ハナジロ → ブリ

山陰:ショウジゴ → ワカナ → メジロ → ハマチ → ブリ

九州:ワカナゴ → ヤズ → ハマチ → メジロ → ブリ → オオウオ

上記のように、「ハマチ」は、広く、生育途上のブリの意味で使われてきた。 (現在では、広く(北陸地方などで)、天然の「ハマチ」が取扱われている)。 元来、関西などでは、ブリそのものを「ハマチ」と呼んでもいた。 また、養殖ブリのことを、「ハマチ」と呼ぶこともある(上記「ブリ漁」の項を参照してください)。

ぶり 出世魚

時々復習しないと忘れる。

(via kml) (via jacony)

印刷資本主義によって形成されたメディアをその共同体の成員の殆どが同時に消費するからこそ、「想像の共同体」は成立する。アンダーソンはその特性を表すべく、新聞を「一日だけのベストセラー」(『想像の共同体初版』p56)とも呼んでいる。今日は新鮮な新聞が明日には古紙になってしまうという事実にこそ、新聞の新聞たる意義がある。しかし、インターネット上の情報には残念ながらこのような同時性が欠けている。新聞の普及によって実現した共同体内部での均質的な時間の流れは、消費されるメディアが新聞・テレビからインターネットへと移行するにつれ、次第に個々人の間で異質なものへと変化していく。均質的な時間の共有が信頼構築を行うコストを格段に低く抑えることが出来ていた時代には他者との情報共有も容易だったけれど、時間の均質性が崩壊し個々の持つ情報の同質性も保証されなくなってしまうと、情報共有の実現どころか他者との関係構築を行なう際の信頼構築のコストも格段に増してしまう。そうなった時、人は自分の周囲に既に存在する均質な情報を共有している仲間との空間から外に出る意義を次第に失ってしまう。そこでは、「一般人」という概念は前提条件として存在するのではなく、個々人が努力の末に成立させる目標になってしまうのかもしれない。そして、「一般人」は「ある」ものから「なる」ものへと変わっていく。

「僕たちは社会という歯車の一部に過ぎない」。真剣10代しゃべり場の出演者が思わず文句を言いそうなこの言葉は、確かにチャップリンが「モダン・タイムズ」で演じたあの光景を彷彿とさせるけど、逆に「社会という歯車」があったからこそ近代社会が実現したという事実を忘れるわけにはいかない。時間的・空間的に離れた人間同士を「社会」というシステムの内に位置付けることが出来るようになったのは近代になってからで、それ以前(啓蒙主義以前)のヨーロッパにはそもそも今のような過去―現在―未来という時間軸も、複数形の世界も存在していなかった。

気付かなければならないことがある。何故今まで自分たちは過去の記憶や他者の記憶との断絶を経験しないで済んだのか。「想像の共同体」を構成する様々な仕組みを欠いた状況下では、容易に過去の記憶との断絶が発生する。そしてそれは同時に他者との記憶の断絶をも意味する。「想像の共同体」は、「あなたが知っていることをわたしも知っている」「わたしが知っていることをあなたも知っている」という関係を保証するための仕組みだとも言える。インターネット上でしばしば過去に話題になったことが今になってあたかも「新たに発見された事実」であるかのように流布してしまうのは、インターネットが「想像の共同体」足り得るための仕組みを実現していないことの端的な現れに他ならないと思う。もしかしたら、近い将来、「皆が知っていることの方が異常だったのだ」という考え方の方が一般的になっているのかもしれない。そのようなタコツボ化を、インターネットは助長してしまうのだから。

想像の共同体(Imagined Communities) - 雑記帳 (via pdl2h)

3年経つも事態は悪い方に傾くばかりですな。

(via kml)

(via lovecake) 2009-01-13 (via gkojay) (via pdl2h) (via yaruo)

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